スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告は非表示になります。
  

Posted by スポンサー広告 at

2016年05月24日

同じ釜の飯を食べた仲間達【76】


パティスリードレカンの工房の二階の休憩室で、川村さんと再就職の話をしていると、
『兼子、冨高辞めるってよ!』と川村さんは私と同い年の兼子君に話を振りました。

『そうですか…。』とクールに答える兼子君は仕上げなどを担当。

『えっ〜⁉︎ マジっすか!!』とリアクションしたのは1年ほど一緒にパート部門で働いて、今はオーブン担当でギャルソンでも一緒だった一つ後輩の石田君。

『まぁ〜頑張ってよ、冨高!』と笑いながら歓迎してくれたのが一緒にパート部門で働いている富澤君はひとつ先輩。

その他、スイスの製菓学校から帰国してレカンに入社した小林さんや、アメリカやカナダで働いてた中山さん。休憩時間に一緒になった職人さん達は、みんな次のステップアップをそれぞれ考えていたと思います。

クリスマスは1週間近く工房の2階に皆んな泊まり、朝食や昼食は若い職人達が交代で作るのも仕事でしたし、、あの頃の数年間は家族よりも会社の人達と一緒の時間の方が長かったですね。同じ釜の飯を食べた仲間達ってやつです。


まだまだ菓子職人としては修業の途中でしたが、その後、海外や他店で活躍したりし、私同様皆んな独立しました。

兼子氏、富澤氏は都内で独立開業し、活躍していますし、石田君は埼玉で独立する前は外資系のメーカーで働いていた時は、彼の講習会にも参加したり、展示会などでも会えましたしね。


その他の職人さん達もどこかできっと活躍してる事でしょうね。

都内を中心に働いたパティスリー・ド・レカンでの菓子職人生活もそろそろ終わりを迎え、、またまた横浜のホテルへの再就職へと進み始めました。。





  

2016年05月12日

根岸線 桜木町【75】


練馬区富士見台にあるパティスリー・ド・レカンの工房で働きだして2年が経ちました。1990年の頃でした。


ある日、休憩時間に先輩が新聞を広げて、ため息を吐きながら話しかけてきました。

『冨高、湾岸戦争 が遂に始まっちゃったなぁ…。』

『これからの時代は何が起こるかわかんねぇよなぁ⁉︎ やりたい事はやっといた方がいいよ。』


埼玉県上尾市出身の川村さんは、兄貴の様に歯に絹着せず何でも遠慮無く言ってくれる先輩でした。


『横浜の新しく出来るホテル、受けるの⁉︎』


私は、横浜の桜木町に建設されてるホテルを毎日横目に見ながら、電車通勤をしていました。
横浜の石川町駅から練馬の富士見台まで、電車を3回乗り換え、約二時間の通勤時間に飽き飽きしていた日々でした。


『はい、願書は出しました。ここにいても小金ちゃんとも合わないですしねぇ…。』と、川村さんに答えました。


毎日、通勤電車から見える桜木町の膨大な敷地が少しずつ整備され、奇抜なホテルが建設されつつ有りました。


あの頃の1980年代終わりの電車から見える桜木町は、何もない港町でした。広い造成された土地の中にコスモワールドと言う観覧車のある小さな遊園地があるだけでした。。