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2016年08月07日

調理部ペストリー【79】



『フロント係を経験してみない!?』最後の4次面接で面接担当者に言われて終わった就職試験。


最終面接から数ヶ月後、ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテルから合否通知が届きました。

結果は、、

晴れて、ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテルの調理部ペストリーに採用されました!


ペストリー(製菓)って事で、ホッとしましたね。


あの面接の時、「私はフロント係は出来ません!」と答えてたら不採用になってたのか⁉︎後で何度か考えたりしましたね。どんな意図だったんでしょうか。後日、ホテルに就職した後、あの時に面接された有賀さんを探してみましたが、ヨコハマのインターコンチネンタルにはいらっしゃらない様でしたね。

開業準備の段階では今日は明日とまったく話が変わる事はよく有りました。常に変化して流動的なんですよね。それは今後の人生で良い意味で勉強になりました。

まぁ、とにかく、横浜のみなとみらいにはじめて開業する外資系ホテルに採用が決まり、私のパティシエ人生は、東京のpâtisserieから、横浜のHotelへと大きく舵を切って走り出しました。。

その頃の、1990年の横浜みなとみらいはには、インターコン(ホテル名が長いので通称で記します。ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテルの略です。)と、国際会議場パシフィコ横浜ぐらいしか有りませんでした。。

  

2016年07月18日

4次面接【78】



横浜のみなとみらい、MM21のホテルの入社試験は遂に4次面接まで進みました。


最後の最後の面接の担当者から

『冨高さんは石川町で地元だから、最初にフロントをやってみませんか?近いから直ぐ来れるしね。』

『まだ若いし、ホテルの楽しさを体験してもらいたんですよ〜!』と、ホノルルのインターコンチネンタルホテルに勤務されてるらしい面接を担当された有賀さんから言われました。

横浜のインターコンチネンタルホテルを開業する為、準備室には世界各地から特別招集さたスタッフ達で編成されてました。


『はい、分かりました!是非フロント係でも何でもチャレンジさせて下さい。』私は答えました。


4次面接の最終面接を終えてから、昔の横浜での職場に結果を報告に行きました。


最初にアルバイトをしていたスペイン料理店と次に働いたサテライトホテルヨコハマです。


『フロント係をやらないかって言われたんですよ!
調理(ペストリー)希望なんですけど…』と私。



『多分それは、、不採用だろなぁ〜』スペイン料理店からもサテライトホテルの永江チーフからもそう言われました。

やっぱり普通はそうですよねぇ、ペストリーキッチン希望で受けた試験なのにフロント係を勧められわけですから。フロントの知識も勉強も学校にも行ってない私にフロントを進める真意は、、意味不明でした。



でももし採用になったら、フロント係で働く気持ちに成っていました。若さゆえの柔軟性と言いましょうか。私の性格なのかも知れません。


ただ、面接官もそうですが、まだ準備室の段階なので全てが手探りな雰囲気は有りました。まだ誕生していないホテルをみんなで作っていこう!!

これからはじまる未知のホテルへの憧れ、外資系ならではの大胆さ、新しいモノを生みだそうよ!そんな情熱だけは、ひしひしと伝わってきました。







  

2016年07月07日

石の上にも三年【77】


3年弱務めた都内のフランス菓子店。

パティスリードレカンに退職の意思を伝え、退職願いを提出しました。

退職までの数ヶ月は、、勝ち負けを気にしない消化試合のようなものでした。

どこの職場でもそうですが、退社の意思を伝えてから退社するまでは居心地良くないですね。

3年弱とうい勤続期間は短いように思われますが、私の中では想定内でした。

色んな店を大体2〜3年で学んで吸収して回ろうと言うスタイルは、あの頃の(菓子)職人の世界では皆んなそうしてたように思えます。
お店との相性が合えば長期間の勤務も有りですが、私の場合は、あまり良くなかったですからね笑

パティスリードレカンに勤務しながら、横浜の西区みなとみらいに建設中の世界120ヶ国に有る外資系ホテルのへの入社試験は受験していました。。


  

2016年05月24日

同じ釜の飯を食べた仲間達【76】


パティスリードレカンの工房の二階の休憩室で、川村さんと再就職の話をしていると、
『兼子、冨高辞めるってよ!』と川村さんは私と同い年の兼子君に話を振りました。

『そうですか…。』とクールに答える兼子君は仕上げなどを担当。

『えっ〜⁉︎ マジっすか!!』とリアクションしたのは1年ほど一緒にパート部門で働いて、今はオーブン担当でギャルソンでも一緒だった一つ後輩の石田君。

『まぁ〜頑張ってよ、冨高!』と笑いながら歓迎してくれたのが一緒にパート部門で働いている富澤君はひとつ先輩。

その他、スイスの製菓学校から帰国してレカンに入社した小林さんや、アメリカやカナダで働いてた中山さん。休憩時間に一緒になった職人さん達は、みんな次のステップアップをそれぞれ考えていたと思います。

クリスマスは1週間近く工房の2階に皆んな泊まり、朝食や昼食は若い職人達が交代で作るのも仕事でしたし、、あの頃の数年間は家族よりも会社の人達と一緒の時間の方が長かったですね。同じ釜の飯を食べた仲間達ってやつです。


まだまだ菓子職人としては修業の途中でしたが、その後、海外や他店で活躍したりし、私同様皆んな独立しました。

兼子氏、富澤氏は都内で独立開業し、活躍していますし、石田君は埼玉で独立する前は外資系のメーカーで働いていた時は、彼の講習会にも参加したり、展示会などでも会えましたしね。


その他の職人さん達もどこかできっと活躍してる事でしょうね。

都内を中心に働いたパティスリー・ド・レカンでの菓子職人生活もそろそろ終わりを迎え、、またまた横浜のホテルへの再就職へと進み始めました。。





  

2016年05月12日

根岸線 桜木町【75】


練馬区富士見台にあるパティスリー・ド・レカンの工房で働きだして2年が経ちました。1990年の頃でした。


ある日、休憩時間に先輩が新聞を広げて、ため息を吐きながら話しかけてきました。

『冨高、湾岸戦争 が遂に始まっちゃったなぁ…。』

『これからの時代は何が起こるかわかんねぇよなぁ⁉︎ やりたい事はやっといた方がいいよ。』


埼玉県上尾市出身の川村さんは、兄貴の様に歯に絹着せず何でも遠慮無く言ってくれる先輩でした。


『横浜の新しく出来るホテル、受けるの⁉︎』


私は、横浜の桜木町に建設されてるホテルを毎日横目に見ながら、電車通勤をしていました。
横浜の石川町駅から練馬の富士見台まで、電車を3回乗り換え、約二時間の通勤時間に飽き飽きしていた日々でした。


『はい、願書は出しました。ここにいても小金ちゃんとも合わないですしねぇ…。』と、川村さんに答えました。


毎日、通勤電車から見える桜木町の膨大な敷地が少しずつ整備され、奇抜なホテルが建設されつつ有りました。


あの頃の1980年代終わりの電車から見える桜木町は、何もない港町でした。広い造成された土地の中にコスモワールドと言う観覧車のある小さな遊園地があるだけでした。。



  

2016年04月01日

ポワソン ダブリル


一般の会社なら4月1日は入社式ですね。


しかし、フランス菓子屋は4月1日は四月の魚
〜poisson d'Avrilを思い浮かんじゃうんですよね。



最近はじわじわ人気出てきました4月の魚。



  

2016年03月03日

ひな祭り【74】


二十代の前半に修業していたパティスリードレカンでも、ひな祭りのアントルメを作ってました。

バリバリのフランス菓子店なのに、日本の行事やイベントも大事にしていましたね。

レカンのサロン ド テ では、ひな祭りの日は桜茶を淹れてサービスで出すのが恒例行事でしたし…。

4月1日はポワソンダヴリルを作ったり、

こどもの日は鯉のぼりに見立てたチョコレートのサブレを焼いたり、、

バレンタインやクリスマスには、銀座の店舗前にワゴンを出して、ショコラやクリスマスケーキを販売してましたねぇ。。


あれから二十五年、今でもこの仕事を続けられる事が感謝ですね。

シェトミタカでもひな祭りケーキを今年も作りました。雛人形も全部手作りなのがこだわりでしょうか。。



  

2016年02月25日

修業時々遊び【73】



パティスリードレカンの練馬区富士見台の工房では、パート(生地)部門の仕事が日々続きました。

1年、2年と当たり前に働いてると、、菓子を作る仕事が日常になってくるんですね。向上心が無くなる訳ではないんですが、、。

厨房で働きだした1年目は、レカンの仲の良い4、5人でケーキ屋さん巡りをしたり、月に1回は、小金井チーフやMシェフ以外のスタッフ皆んなでボーリングに行ったりしましたね。
上下関係はそこまで厳しく無かったですが、、Mシェフや小金井チーフ、セカンドチーフぐらいまでのトップからナンバー4までは、独裁的でしたね(笑)
その4人の誰かに気に入られると、仕事も回してもらったり、教えてもらえたり、、。

私はダメでしたね〜!特に小金井チーフとは気が全く合いませんでした。上手な奴はうまく話を合わせ、ヨイショしてるんですが、、。小金井チーフの前任の渡辺チーフとは気が合ってましたが、、。

ですから、仕事は普通にこなしましたが、中々他のセクションに回してもらえないンですよね。

ナンバーフォーの誰かが白と言えば、黒でも白と言うのがあの頃のパティスリードレカンでした。

朝、いきなり訳もないのにケツを蹴られ、、振り向くとナンバーフォーの誰かが『おはよう』と笑ってるンですよね。こっちも笑顔で『おはよーございます〜!』って。皆んなそうしてましたから。


数週間後、
しばらくしても、ケツを蹴られ『おはよ〜』って言われたんですが、さすがになんか嫌になって、、

『はい?痛いんですが何でしょうか。』と言い返しました。

向こうも、びっくりした顔で『何でもねぇよ!』と。

それからはあまり蹴られる事も無くなりましたが、出世コースからも外れましたね(笑)


1年が経つと、、

人並みに彼女なんかも出来たり、、。新宿店で仲良くなった黒服の販売員の本郷さんと、大型バイクの話で盛り上がり、休日は自動車学校に通い、中型免許を取得し、本郷さんと色違いでホンダの中型バイクをローンで買いました。

パティスリードレカンでは相変わらずパート部門で働いたり、他の部署を手伝ったりの日々でした。 パティスリードレカンの売り上げのメインの柱が、お中元やお歳暮などデパートでも売るパート部門のクッキーでしたから、パート部門の仕事はどの部署よりも多い仕事量でした。プラリネ、チョコチップ、ココナッツ、ダマンド、、どんどん仕込みましたね、毎日。。


中型バイクを買ったり、教習所に通ったりしたので給料では足りなくなり、週に2、3回掛け持ちで、横浜山下町のファミレスでアルバイトをやりましたね。

レカンの仕事が終わって、電車を3回乗り換えて地元の石川町の駅に着くのが午後10時ぐらいでした。それから山下町のデニーズで途中仮眠や夜食をとり、、朝の5時頃まで働きました。それから簑沢のアパートに帰ってシャワーを浴び着替えて出勤です!

まぁ、若かったから出来たンだと思いますが、、。

半年ぐらいファミレスのバイトは続けましたね。。



  

2016年01月30日

菓子の土台 パート Pâtes【72】




生地、パート(pâtes)には伸ばし方や仕込み方、割合によっていろんな名称があり、菓子の骨格、土台を作ります。


レカンでのpâtes(パート〜生地)のセクションに配属された時は、、ちょっと拍子抜けな気持ちだったのを憶えています。

ケーキを飾ったり(仕上げ部門)

焼いたりする作業(釜 焼き物部門)などが華やかな、菓子屋の主役的なイメージを抱いてました。


生地(pâtes)を仕込む部門は空調で1年中20℃に管理され、なんか隔離されてるンですよね。

なんか地味なセクションに配属されたなぁ…と。

まぁ、しかし仕事ですからね。

お菓子屋さんやパティスリーは、創造力の求められるアーティスティックな仕事をイメージされるかも知れません。確かに創造力は大事ですが、、。

しかし、菓子職人も会社員で有りサラリーマンです。どんなお店でも普通の会社と同じです。


どんなに凄い創造力を持ち合わせてるとしても、、

先ずは普通に挨拶や返事が出来、上司や同僚や会社が求めてる仕事をこなせるかどうか、、。
集団行動が出来、会社に必要な人材か!?

または、そうな人材に成れる見込みが有るのかを証明しなければなりません。

最初っから仕事を選べる訳もなく、ちゃんとした部門に配属された事に感謝しなければなりません。


実際にいろんな部署の使いっ走りをされてるスタッフもいましたし、、いろいろ経験出来るけど、あれはあれでキツそうでした。。


私はフィユタージュを仕込んだり伸ばしたり、クッキーやパートシュクレを仕込んだり、、先ずは指示どおりに仕事をこなして行きました。。



パティスリー ド レカンには、タルト フロマージュと言うケーキが有り、ギャルソン時代から大好物のケーキでした。
とてもシンプルな構成の菓子でしたが、、この無駄の無いシンプルさがフランス菓子のエスプリなのか…と。

それまでは、アップルパイやタルトは、柔らかいしっとりした洋菓子タイプが主流の時代でした。

サクッとしたクッキーのようなタルト生地をレカンで覚えれたのは、、そんな旨い菓子に出会え、学べたのは一生の財産かも知れません。


あれから20年以上、30年弱経ちますが、、今でもタルトは好きな菓子で良く作ります。








pâtes〜パート部門の配属され、小麦粉をさわるばかりの毎日は、、2年も続きました。。

今となれば、無駄では無かった時期でした。









  

2016年01月06日

ガレット・デ・ロワ【71】



1月6日のエピファニーの頃に食べられるガレット・デ・ロワ。


このガレット・デ・ロワを販売する頃になると、

東京のパティスリー ドレカンで、

菓子職人としての修業時代を思い出します。。



と言うのも、レカンの富士見台のラボ(工房)での配属先が、ガレット・デ・ロワやミルフィーユに使うフィユタージュ(折りパイ生地)やpâtes(パート)を仕込んだり伸ばしたりする部署でした。

毎年ガレット・デ・ロワを焼く時に漂うバターとフィユタージュのキャラメリゼされた時の香り…。

手作りフィユタージュの香りと既製品フィユタージュの香りは違うんですよね。。



レカンではフィユタージュも全部自分達で、pâtesのスタッフが仕込んでました。

パイを折る楽しさと難しさを知ったのをガレット・デ・ロワの香りと共に、今でも思い出します。

シェトミタカでも既製品のパイだけは使わない様にしています。冷凍パイシートも美味しいんでしょうが、、今はパイを折る店も少なくなったそうですか…。

フィユタージュを自家製で作れないと、敢えて販売しませんね。小さな個人店だから、そんな事言えるんでしょうね。。

何を大事にするかは人それぞれですが、見た目の飾りや仕上げの華やかさより、菓子の骨格の生地、pâtesを大事にするのがレカンで学んだ仕事でした。